17/01/01

校長古田茂樹の「車窓余禄」【第9回】「昭和30年代の車たち」

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私は昭和30年代に幼少期を送った。10年少々前まで戦争をしていてアメリカにコテンパンにやられたと大人から聞かされた。幼子の目にも、街も家も家具も人の身なりも国ががれきから立ち上がる雰囲気が溢れていた。しかし、世の中全体に貧しいながらも、えらくエネルギーが満ちていた。

さて、車の話である。4輪車はあまり走っていない貨物はオート3輪が主であった。騒音はドッドッド、バリバリ、グァーと盛大である。排気は黒白モクモク、匂いは強烈であった。私はあらゆるタイプの車が好きであった。見てうれしく、乗せてもらってえらく興奮したものである。貨物のオート三輪の舵取りは丸ハンドルではなく、バイクのように両手でハンドルを切るタイプであった。そして、床下から走る路面が見えた。

その後、オート三輪車も丸ハンドルに変わっていった。丸ハンドルが上級だと分かっていたので、三輪車くんが丸ハンドルに昇格していくのをわがことのように祝福した。世の中、これ以外も何につけ新しいものは必ず古いものより上等なのであった。すべてが良くなっていくことに大人も子供も疑うものはいなかった。当時の最大の政治課題であった日米が軍事的に一体になる条約(日米安全保障条約)については、国を二分するほどの激論やデモが爆発していたが、モノの変化についてはだれも疑わなかった。今日より明日が良くなると100%信じていた。

街角にかっこいい車が停まっていると、人だかりができた。でかく大味なアメ車よりも、上品な佇まいの欧州車に人はより惹かれた。外観もみて溜息、窓から内部を覗きまた溜息である。一般人だけでなく、やくざや警官も仲良く混じってあこがれの車を眺めていた。しかる後、持ち主が用事を済ませて帰ってくると、取り巻いている衆は、憧れと畏怖の混じった溜息とともに後ずさりして道を空けるのであった。

この光景が無性に懐かしくて仕方がない。人はなにが幸せなのか考えさせられるときである。自分は戦後の焼け野が原から立ち上がった自動車文化と歩調をあわせて人生を愉しめたのは、とてもラッキーだと感謝している。

2013年1月号 2012年12月20日 発行

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