最近、英語よりも難儀する個性ある日本語に出くわした。単語そのものではなく、文尾・語尾で難儀したのである。
米国の教育機器メーカーと繋がりが深い会社の部長だ。先週電話で話をするうちに、だんだん頭がくらくらしてきた。相手は親しみを示すためか、故郷の京都弁でまくし立ててくる。セリフの頭の方はよく分かるが終わりに近づくとやけに意味が分かりにくくなる。だんだん、不安になり、しまいにはイライラしてきた。
イライラ感はおくびにも出すことなく電話を切った。そして、原因を考えてみた。彼の京都弁を言語学的に分析してみた。そして、自分がどこにイライラしたのかはすぐ判明した。ようするに、言っていることが、(1)提案なのか、(2)迷いなのか、あるいは(3)からかっているのか、判然としないのである。
では先ほどの京都弁はどこが問題なのか。文尾・語尾に来る動詞の活用と助動詞である。例えば、動詞「行く」は助動詞と結びついて変化する。部下に「行かせる」・上司から「行かせられる」・どんなことがあっても「行かない」・それでは私が「行こう」・もう一人「行くらしい」・君も「行こう」・・・・って具合である。このひらがなの部分は元来の日本語なので地域差が出る。方言が入り込む。
漢字で完結する単語やカタカナで表す欧米からの外来語には方言はない。漢字に送り仮名がつく元来からの日本語に方言が生じる。これだけいわゆる標準語が普及した今となっては、突然馴染みのないバリバリの方言でペラペラやられると英語よりも面食らう。日本語は文尾・語尾に感情や意図、それに微妙なニュアンスを表す言葉が集中する。
そういえば、熊本県で立派な社長の話を伺った時も、文尾・語尾に込められた彼女の判断が分からず困ったことを思い出した。人柄や地元の風情が感じられて情緒あふれる口調ではあったが、私だけでなく、他県から来た周りの者たちも首を傾げていた。日本語は文尾・語尾のひらがなに気をつけろ、と自分に言い聞かせている。
2015年11月号 2015年10月20日 発行