
ごく最近の週末、私たち車愛好家4人は阿南の津乃峰スカイライン終点のパーキングに上っていた。まだ、比較的早朝でありリフト客もいなかったのでリフトの運行管理係をしている女性と「地場の美味しい食べ物」談義を楽しんでいた。話が弾むうちに、うどんがテーマになり阿南南部の町、新野にある「志乃屋」は私たちだけでなくリフトの女性も大好きな店だと分かり、話は詳細に盛り上がった。「志乃屋さんは阿南にファンが多いですか?」と尋ねると、女性はようけ(=たくさん)いますよ、と弾けるように返事が響いた。
次に来たら、リフトに乗ってね、という女性の見送りの言葉を背に私たちは新野のうどん店に向かった。到着前に、少しばかり新野を紹介したい。一望すれば、辺りは広大な水田が広がる農村地帯である。同時に、LEDの世界的メーカー日亜化学工業の発祥地でもある。現在も大きな工場が稼働している。遍路を見かけるのは、八十八ヶ所巡りの二十二番目の札所、平等寺があるからだ。また、噛まれると命取りとなる「マダニ」の生態や被害者の治療研究で有名な馬原医院が存在する。マダニの資料館も建っている。大学受験でいうと、県内でも東京大学合格者が集中している土地でもある。「TECさんも新野分校建てたらどうですか」と勧められたこともある。頭の良い人を生む水、空気、緑、そして磁場が揃っている土地なんですね、と私は付け加えた。
そうこうするうちに、目的の新野「志乃屋」に到着した。一番乗りの友が浮かない顔で私の車に寄ってきた。「あかん、廃業しとるわ」と落胆の表情で説明した。昭和の佇まいの店の入り口引き戸に張り紙が貼ってある。「廃業しました。もしやりたい人がいたら、厨房の設備を含め、そのまますぐに始められますよ。連絡先電話番号△△」との内容である。しばらく、落胆の面持ちで店前に佇んだが、無いものはない。
新たな店に向かう前に、この店との邂逅(かいこう=思いがけない巡り会い)について語りたい。ある日、以前から気になっていたこの店で遅い昼食を取ることにした。ひとりで入店した。座敷席へ座ると、初めて来たのですが、何がおすすめですかと尋ねた。「トンカツうどん」なんてどうですかとの女将の答えが返ってきた。割と人気ありますよ、との切り口から始め、あの「水曜どうでしょう」で有名な俳優の大泉洋さんも大層気に入られたメニューですよ、と展開していった。私は彼のファンですと返した。あの適度な力の抜け具合の演技が魅力ですよね、と言うと女将もそうですよと共感した。注文は「トンカツうどん」に決まった。まもなく、品が運ばれてきた。腰のある太めの讃岐うどんの上に普通サイズのとんかつがドンと鎮座して、その上にたっぷりと刻みキャベツが載せられている。トンカツもキャベツもうどんや汁とよく合っている。その後、友達たちを誘い定期的に訪れる店となった。
話しの舞台は変わる。しかし、主役はうどんである。私は「山の子」である。昭和四十年頃、友達たちと好物のうどんをよく食べに行った。近くの農協で働くおばちゃんの日当が600円時代で、素うどん一杯は25円であった。4人のメンバーはうどんにプラスの目的があった。家では「頭が悪くなるから、辛い七味は子供が食べたらあかん」と一様に禁止されていた。当時は余り根拠もなく、大人が子供を縛る傾向が何かにつけ横行していた。禁止薬物の七味を思いきりかけて、汗だくになってフーフー言いながら皆でうどんを食うのが楽しかった。他に大して楽しみの無い時代でもあった。
そこへ突然店のおばちゃんが口出しにやって来た。「おまはんら(=あなたたち)子供がほんな辛いもんようけかけたら頭悪うになるでよ。」と余計なことを言う。連れのひとりが反撃した。「わいら(=僕たち)ちっと頭悪うになった方がええんじゃ。分けのわからんおせ(=大人)の言うことにイライラしとんじゃ」と言い、その連れは私を指差し「こいつは頭半分になっても人並みはいけるけん」と言った。自慢話は好きではないが、私は概ね勉強はできる方と言うことになっていた。うーん、わけの分からん時代ではあったがうどんは美味かった。
あの時代に戻って友と七味たっぷりのうどんを食いたい。ばかな時代だったがうどんは 美味かった。今は、物知り顔の大人と子供の時代になったが、うどんを始め食べ物が押し並べて不味くなった。
別のうどん店に着いた。現代的運営の店であった。まずいうどんではないが、店の歴史と一体感のある美味さはなかった。 (終)
2025年9月11日 発行


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