10年以上前の話である。私はまだ現場の教壇に立っていた。国公立2次試験の英語にほぼ必ず出る「英作文」の黒板上添削講座を担当していた。生徒には日本語の問題文(和文)を英語に直す宿題を出しておく。授業当日、生徒は指定された番号の英作文を黒板に書く。講師はそれを添削して0.5点刻みの10点満点で評点をつける。英語として正しくても、採点者によっては間違いとして減点される可能性のある個所も指摘していた。合格を目指す答案である以上、採点者の存在は無視できないからである。
その頃は世間ではスマホが流行りかけていた。英作文の課題をネットでやってきた匂いのする黒板上の回答が出始めた。20名ほどの生徒の中でA君の書いたものは特にネットの匂いが感じられた。他の生徒の英作文はまだ人間の匂いが残っていた。「A君には、困った」と思った。全員に教室で書かせるやり方も考えたが、同じ時間ならば英作文体験は半分に減る。しばらく悶々と悩んだ。
そのうち県外の塾から、学校での英語記述型模試でのアクシデントを知らされた。その生徒は英作文問題で行き詰った。悪意はなかったが、思わずカバンのスマホに手が伸びた。そして、股の間で和文を入力し始めた。いつもの癖が出たのである。運悪く監督の先生の目に留まり「おい、何をしている?」と御用になった。模試では注意で済んだが、入試本番なら一発で失格処分になるぞ、と厳しく叱られた。知らせた塾長からは「最近多いよ。大体悪い流行は都会から始まるから、そっち(地方)でも警戒した方がいいよ。」
そのうち、センター試験を始め一般入試の会場でも携帯を使った不正行為が報道され始めた。“悪い子のサイト”を検索すると、携帯・スマホを使った入試本番での不正行為を指南する書き込みもたくさんあった。真偽のほどは分からないが、まんまと不正をやり通し志望校合格を果たしたとの自慢話もアップされていた。元来、卑怯なやり方は嫌悪する方なので、読むだけでムカムカしてきた。しかし、これも時代の産物かとため息をついた。
ところで、「チャットGPT」や「グーグル検索・翻訳」を代表とするすぐれもののサイト・アプリ登場と外国語学習の必要性について友人・知人から問い合わせが増えた。年齢的には社会で活躍する30、40代本人からも多いが、子供や孫の外国語学習の必要有無の質問が多い。つまり要は、あの煩わしい英語学習を何とか省略できないものか?あるいは、もう機械に頼った方がいいのでは?との質問である。暗に、「もう英語やらなくていいよ」との返事を期待する顔色もちらほらしている。
残念ながら、私の答えは「必要あり」である。がっかりしている向きには、「違う答えが要るなら他を当たってくれ」と笑いながら応答している。私の答えは、日本語と英語はできるだけ声を出したり、手で書いたりして身体に沁み込ませたい、である。言い換えれば、アナログ的に汗臭くやるべきである。そして、次の話をしっかり聞いてほしい。日本語、英語の次であるが、これは機械に任せたい。ミャンマーに赴任して、軍隊の警備隊に行く手を止められ職務質問を受けたとしよう。ミャンマー語から日本語への直接のグーグル翻訳をすべて真に受けて大丈夫だろうか?一旦、現地語から英語に落としてみて検証すべきではないか?世界中、ほとんどの言語は英語とのすり合わせは大分できているはずだ。
なるほど、英語の大切な役割は分かった。日本語の役割はなにか?との質問もよくある。これは日本人としてのアイデンティティの確保である。日本人の個性はあらゆる事物に宿るが、質量ともに最も豊富に徹底しているのは大和言葉、日本語である。これは人間性の要でもある。どうしても譲れないところである。
まとめる。日本語でアイデンティティをしっかり確保して、外国語のデビュー戦、つまり英語学習は地道に辛抱強くやる。これで外国語の肌感覚は身につくはずだ。準備完了、三歩目からは人工知能を使いまくってはどうだろう。 (終)
2023年5月20日 発行 TEC TIMES 2023年6月号より