MENU
21/07/16

校長古田茂樹の「車窓余禄」【第7回】「ジェンダーフリーなクルマ文化の到来が楽しい」

ページメニュー

アーカイブ

車窓余禄タイトル

 私たちの社会は役割、身分、男女差、価値基準、善悪基準などを決めることで秩序を維持したり競走を促したりして発展してきた。個性や個人的好みなどは制限されがちであった。秩序と発展のため息苦しさは我慢した。
 さて、車好きの世界は今でもまだ強い者優勢の文化である。値の張る車、スピードの出る車、ハイパワーなクルマが上位とされている。排気音は勇ましいものが良いとされている。ドレスアップも派手派手しいのがもてはやされている。運転も荒々しいのがカッコいいことになっている。早い話、極端に「タテ社会の価値観」が支配的な世界ある。しかし実を言うと、男性パートナーと同乗してくる女性でさえ、改造や派手な見た目に「やりすぎ感」を感じている。だが、大きな声では言えない。はっきり言うと彼氏が不機嫌になるのが怖い。
 昨今はだいぶ減ったが、昭和の男性の中にはバイクや自動車事故での負傷から生じた身体の不具合を自慢して語る者もいた。その後の人生において生活や仕事で随分苦労や不自由を被っているはずなのに。自慢話として聞くのも痛々しいが、面と向かって否定的な発言ができないのももどかしい。相手の尊厳を傷つけたくはない。しかし、そんな不自由を抱える者の中にも高い割合で猛者がいる。不自由を乗り越えていまだにモータースポーツに熱中している。障害(この際はっきり言ってしまうと)を克服すべく機械装置に改善工夫をしたり自己鍛錬でスキルを上げたりして、レースやタイムアタックでいい成績をたたき出している。ここまでくると「あっぱれ」と言うしかない。
 こんなマッチョな文化を完全否定はしていないが、なにか時代に取り残された感覚や閉塞感を感じてしまう。「タテ社会」思想は国の発展や個人の努力を促すには好都合かもしれないが、穏やかに個性を眺めて楽しむゆとりを奪っているのが息苦しい。マッチョも一つの個性であって、フェミニンな存在やジェンダーレスな存在もクルマ世界に持ち込みたい。ジェンダーフリーやジェネレーションフリーな考え方が新しく柔軟なクルマ文化をもたらすような気がしてならない。違いを認めて違いを楽しむ「ヨコ社会」思想である。
 クルマ好きの社会もSNSは情報交換やコミュニケーションに大活躍している。数年前は圧倒的に「高い・速い・強い」思想が支配的であったが、最近は変わってきた。SNSで扱うネタに季節の花々、野菜、果物が加わってきた。私も自庭に植わっている琵琶が青く小さな果実から丸々太って色づくまでの様子を写真で発信した。最後には収穫して(希望者には)濃い黄色に熟れた琵琶を茎付き葉っぱ付きで届けた。食文化の発達した友の家からは琵琶に合うクリームをかけたデザートが写真で送られてきた。翌日にはゼリー琵琶の写真が来た。しばらくするとマッチョなクルマ紹介が届いた。変化があっていいな、多様性は活気の素かな。
 後日、黄色く熟れた琵琶を届けた医療関係者からは家族で楽しむだけでなく、病院の職員や担当の患者さんにも配って喜ばれたとも書かれていた。文化は深化、多様性、加えて人々の間への拡散が楽しみのコツかなと気づいた。(終)

2021年6月20日 発行  TEC TIMES 7月号より

TEC予備校へのお問い合わせ

お電話にて

メールフォームへ(24時間受け付けております)

お問い合わせ 時間割や料金がわかる資料を無料でお送りします。