小学2年生の時、祖父がどこからか中古の子供用自転車を調達してきた。車体色はくすんだ青色だったと記憶している。子供にまで専用自転車を買い与える時代にはまだ達していなかった。友達たちに見せびらかすなどの意識は全くなかった。とにかく、自転車を漕ぐこと、全身に風を浴びて走る爽快感、徒歩より遥かに速く移動することが至上の喜びであった。学校が終わるのが、毎日待ちきれなかった。早く、自転車に乗りたいからだ。
クラスで児童が他の児童を指名して、相手に質問を投げかける時間が設けられていた。ある女子児童がニヤニヤしながら私に、「よく自転車に乗って町内を走るのを見かけるけど、いったいどこへ行くのですか(子供言葉かつ方言で)」と問いかけてきた。「そんなの決まっていない。走り出してから考える。走ることが楽しいのだ」と答えると、クラスがどっと笑った。さっきの女子がニタニタしながら「今日も行くの…?」と重ねて聞くので、「行くよ」ときっぱりと答えた。内心、こんなくだらん会話練習など時間の無駄や、自転車で走りたいと言いたかったが、教師に嫌われるので止めた。
そのちいさな小学生だった私も時がたつと少年、青年、壮年、老年となったが、乗り物が好きなことは不変である。いや、不変どころか更に強まっているように感じる。「三つ子の魂百まで」とはよく言ったものである。この格言を身をもって体現した自分に感心している。仮に、私が江戸時代に生きて寺子屋(その時代の塾)をやっていたら、きっと馬を飼って、野原を馬に跨り駆け巡っていたに違いない。早駆けから帰ると愛馬に水を飲ませて冷水で湿した布で馬身を拭いてやっていることだろう。そして、馬と会話を楽しむ。
普通の人から、よくこんな質問をされる―「仕事の憂さ晴らしに車をぶっ飛ばすのですか?危ないですよ。ほどほどにしてくださいよ」あまり真面目に答えても仕方がないので、「意外に思うかもしれませんが、割に丁寧に考えながら走ってますよ…」と笑いながら応答している。あー、これが一般人の見方か、とため息がでる。
車好きの仲間内では、「道路は楽譜、車は楽器、ドライバーは演奏者」というのが共通認識である。工場で組み立てられた吊るしの状態の車両は“緩く組んである”。よく言えば、どんな人が、どんな道で使っても無難な車である。悪く言えば、面白みの乏しい車である。楽器でいえば、誰にでもどんな曲でもある程度弾ける代物である。でも、腕の立つ演奏者には物足りないかもしれない。
自分好みの車に仕上げるには、よく慣れた道(=よく覚えた楽譜)でよく走り込む(=弾いてみる)必要がある。同じ道を往路と復路で試す。ある個所の設定を少し変えてまた走って評価する。徐々に自分の求める走りの車が仕上がっていくのが嬉しい。そして、愛車への愛着が増す。
楽器を演奏する奏者と話をすると、中々話が弾んで楽しい。一見違うことでも本質を追及すると案外共通しているものである。次は、サラブレッドに乗る競馬選手と乗り物談義してみたいな。 (終)
2022年5月20日 発行 TEC TIMES 6月号より